奥村 尚之

りんご治療院 院長

・長野県長野市出身
・昭和54年11月16日生まれ

・厚生労働大臣認定国家資格

はり師   第148037号
きゅう師  第147801号

・FMS Level Ⅰ&Ⅱ
・SFMA Level Ⅰ

PROFILE

中学生まではモトクロスに熱中し、93年に全日本モトクロス大会7位。 95年よりモーグルを始め、98年には全日本ナショナルチームに所属。 翌年ケガによりモーグルからフリースキーに転向、 写真や映像で多くのメディアに露出する。
現在もスキーやマウンテンバイクなどアウトドアスポーツを楽しみつつ、 日々より良い治療を探求中。

こんにちは。りんご治療院の奥村尚之です
自然なカラダの使い方 をコンセプトに、原因や予防法、またスポーツに活かせる動きなどを カラダの構造に基づきわかりやすく発信しています。

自然なカラダの使い方とは

お辞儀の動作を例にします。
このとき腰で曲げるのはNGです。

腰の骨はそれほど曲げれない構造だからです。

お辞儀のときは 股関節から曲げるのがカラダの構造として自然です。
しかし股関節周りがカチカチで動きが悪かったら、、、

無理に腰から曲げることになって腰に負担がかかってしまいますよね。

負担のない然なカラダの使い方を頭の片隅に置いて予防を習慣にしましょう!
ボクは「一生涯大切なカラダを守るパートナー」として、あなたの健康の識”が変わることを目標としています。

今回はなぜ治療院を始めたのか?
そんな原点につながる生い立ちや趣味のことなど、良かったら読んでくださいね。

 

 

長野市で生まれ育つ

食い倒れ人形ではないですよ(笑)

長野県の北部、360度山に囲まれた長野市で生まれ育ちました。
家族は旅館を営むおじいちゃん、おばあちゃん、母親と、郵便局に勤める父親と、兄でした。2人兄弟の末っ子です。

5歳頃のモトクロスのレース

父親の影響で、4歳からモトクロスを始めます。
バイクに乗ることが楽しくて、6歳以下の全国ランキングでは2位までなりました。
しかしながら小学生の時は毎年のように骨折などケガが多かったです。

小学校2年生の長野市長杯

スキーも同じ頃から始めます。
両親はそれまでやったことがなかったので、一緒にレッスンを受けたりしてました。
バイク同様に滑ることが楽しくて、小学2年生の時に長野市スキー大会で優勝しました。

当時から何に対してもこだわりが強く、親が買ってきてくれたミニ四駆のモーターを「タミヤ製」でないから拒否するほどだったようです(笑)

モトクロスに熱中する

雪が降ってもモトクロス

小学生から中2までが一番モトクロスに熱中していた時期です。
今でも当時の傷痕が残っていたりします。
その時代は、岡田真澄さん(ファンファン大佐)や、稲川淳二さんとテレビ取材でご一緒したこともありました。

中学では部活動が必須でしたので、友達に誘われるがままバレー部に入ります。
しかし顧問の先生と交渉して、日曜日は欠席して、モトクロスに行きました。

中2のときに念願叶って鈴鹿サーキットで行われる全国大会に出場します。(顧問の先生も大喜び)
その時はホールショット(1番で第一コーナーをで通過すること)を獲って、全国でも6人しか飛べない20m超えのテーブルトップも飛びました。
途中、手を振ってくれる観客にノリノリでアクションジャンプ(手や足を離す)したり、記憶に残る一番楽しいレースでした。

鈴鹿の名物20m超えテーブルトップ

大会前日は嬉しったのか突然38度を超える高熱を出してしまい、熱湯のような風呂で身体を温め、十二単のようにジャケット3枚くらい厚着して克服しました(笑)

モーグルに目覚める

中2の冬に初めてリレハンメルオリンピックのモーグルを見ました。
当時では考えられない ヘリコプター(ジャンプして360°)を行う選手や、牧師の選手など、個性溢れるで自由なスキーに一瞬で魅かれます。

その中でも金メダルを獲ったジャン=リュック・ブラッサール選手の膝の動きは衝撃的!
翌日から階段はモーグルバーンです。モーグルもどきで降りてました(笑)

その後、ビデオでエドガーグロスピロン選手がモーグルのエアー台でバックフリップ(当時は禁止技の後方宙返り)を見た時から、モーグル一色になります。
見よう見まねで体育館のマットが置いてある倉庫でエアー練習したりして、バク宙もマスターしました。

高校は長野工業高等専門学校(高専)の機械科を受験しました。
週休2日制、大学受験なし、さらに試験日が早いので、よりスキーの時間ができることが一つの動機です。
また父親の影響で、物作りやメカなどが好きでしたので 一択でした。
そして合格通知後の中3の春から本格的にモーグルを始めたのです。

高専時代はスキー漬け

フランスのセバスチャン・ミショー

車の免許がないのでスクーターでスキーを背負って滑りに行くくらいモーグルにハマってました。
当時は一日中滑りまくっていて、休憩はリフトに乗った時だけ。

ホームは妙高杉ノ原スキー場。
当時はフランスのセバスチャン・ミショー(Seb Michaud)の背中を追って滑っていました。
(フランスナショナルチームで、後にエクストリームスキーで世界チャンピオンになったプロスキーヤー)

コブの滑りだけでなく、クリフジャンプやフリーランも楽しかったです。。
彼の世界レベルのスキーを目の当たりにしていたので、彼が与えてくれた影響はとても大きいです。

モーグル選手時代

高専1年生の時はモーグルの草大会でも予選通過が難しかったです。
しかし3年生の時には草大会で多数の優勝、そして公認大会でも予選通過できるレベルになりました。
全日本大会に出場できるポイントも得てましたが、申込み忘れて出場できませんでした(笑)

ちょうど長野オリンピックで里谷多英選手も金メダルを獲り、グラブヘリが認可された年です。

その後、全国的にモーグル熱が高くなり、次期オリンピックに向けたジュニアチームが発足。
そして当時のコーチに推薦してもらい、全日本チームの体力測定に参加する機会を得ます。
しかしながら測定結果は選定された8名中、7位。ズタボロでした。

全日本モーグルチームのスイス合宿

それから一夏の間、兄貴が一緒に自主トレーニングに協力してくれて 極限まで追い込みます。
兄貴は高専受験の時も深夜まで苦手な教科の勉強を付き合ってくれました。
いつも諦めそうになった時に協力してくれる心強い兄貴です。
がんばった甲斐があって、次の体力測定では1番になることができました。
そして全日本チームに入れ、秋にスイス合宿に行けました。

いくつもの課題を抱え帰国して、日本でシーズンインしました。
しかしながらシーズン序盤にジャンプの着地で右膝前十字靭帯を断裂してしまいます。
その年は毎回テーピングで膝を固めて大会に出ていました。
モーグルは膝を動かすので、だいたい1本滑ればテーピングが切れてしまいますが、、、

怪我はショックでしたが成績も出ないので、おはらいにも行きました。
また、それ以上に周りのプレッシャーで精神的に参ってしまいました。
そしてオフシーズンも膝の調子が回復しなかったので選手登録を抹消します。
実質、モーグルの引退です。

スキー専念から自分の好きな事を

雑誌の見開き広告にも使われた東北遠征 撮影:​杉村航

1年ほど整形外科に通院しても膝は痛みましたが、とある整体に2回行くと劇的に回復しました。
スキーも復帰できるほどに治ったので、自然な流れでフリースキーを始めます。

当時はいろいろなジャンルから吸収しようと、海外のBMX雑誌をたくさん見てました。
それには、想像力を生かしてあらゆる物や地形で表現するスーパースターがいました。
「技を競うではなく、想像力で表現する世界」に惹かれます。
「こんなことをスキーでやってみたい」と思い、毎年滑るところを探して遠征が始まります。

撮影後の集合写真 左から二番目がボク

遠征先の美味い物を食べ、同じ志向を持つものどおし交わすお酒は至福のひとときです。
そして撮影した写真やビデオを出版社に売込みに行ってました。
当時そのような活動は珍しく、メディアに載る機会も増えました。
他にはスキーキャンプを企画したり、独自路線で活動していました。

アメリカ遠征。スピード感と大きさにビビった!

またオフシーズンは、BMXでダートジャンプをしてました。
スキーも自転車も整備されたフラットなコースでなく、縦の動きもある自然な地形が楽しいです。
3次元の動きは「本能が覚醒する!」というか、アドレナリンが分泌します!

他にはバックパック1つで各地の文化に触れたり、野生的なキャンプしたり、今でも行き当たりばったりのような旅が好きです。

山水画の世界を川下り。中国の陽朔にて

食料は島で獲れたものだけ。

自分が進む道べき道へ

潰瘍性大腸炎を患う

20代半ばから一週間ほど下痢と血便が続くことがありました。
病院に行っても痔と診察されていたので大丈夫かと思っていました。
しかし、27歳の冬に缶ビールを1本飲んだら動けなくなります。
そして病院を変えて、初めて潰瘍性大腸炎という診断をされました。
食べると直ぐに大便(ほとんど血です)をもよおすので、1週間で体重は10kg減りました。
潰瘍性大腸炎

大きな転換期

恥ずかしながら、大病になって初めて家族の有り難みを知ります。
親父も「大腸を移植する」と言ってくれました。(実際には大腸は臓器移植法で不可ですが)

当時働いていた職場も長期休みで居づらく感じましたし、将来のこともいろいろ考えました。
この病気は転機かと思い、モーグル時代の膝の怪我を治してくれた「カラダを治す仕事」をするため学校に行くことを決めました。

10代に囲まれた専門学校の教室

その後、今までの貯金を学費にあて信州医療福祉専門学校の鍼灸科に入学します。
やりたかったことでもあり、東洋医学の自然な思想はとても楽しかったです。
そんな学生生活でしたので国家試験も問題なく合格できました。

初めての患者は自分!?

(2人目の飛び過ぎがボクです)

国家試験が終わると、少しセーブしていた気持ちが弾けスキーを滑りまくりました。
そしてシーズン終盤の特設ジャンプのイベントで飛びすぎて左膝の靭帯を断裂してしまいます。
鍼灸の免許取得後、まずは自分の膝に鍼をしました。

その後は整骨院に就職します。
しかし永遠に通い続ける治療法に違和感がありましたし、尊敬していた院長も方針が変わってしまいました。
鍼も触れられず受付業務だけという仕事も耐え難いことでしたので、10ヶ月で退職しました。

その後1年間は配達の仕事をしつつ、良いと言われる治療を体験するため全国を回ります。
まさに「怪我の功名」今までの自分のケガで違和感があった、肩・腰・膝の3大部位の治療法を勉強しました。
〇〇流など一つにとらわれず、良い方法は取り入れました。

「膝の靭帯のリハビリになれば」とマウンテンバイクを始める 撮影:_dog101

りんご治療院 開業

2012年に長野市の実家の一室に「りんご治療院」を開業します。
治癒を目的とし、模型を使ってわかりやすく親身な説明を心がけました。
今もその思いは変わりません。

翌年には結婚して名古屋に移転します。
今までは来院のみでしたが、高齢者の訪問治療やボランティア活動も始めます。
ボランティアを始めたおかげで、来たときは知り合いの少なかった土地で繋がりができました。

人と繋がることで何事も楽しくなり、お互い助け合うことができます。
改めて繋がりは大切だなっと感じました。

これからの方向性

今までは治すことだけを目的としていましたが、これからは機能改善による予防に重点をおいていきたいと思います。
そのように方向性を変える2つの出来事があります。

康寿命を延ばす

我が子のように世話をしてくれた知合いが認知症になってしまいました。
薬の強い副作用で歩けなくなってしまったり、話が通じないショックはとても大きかったです。

でも認知症は本人よりも介護する家族が大変です。
今も弟さんが介護されていますが、人情溢れる人柄が変わってしまいました。

認知症に限らず、高齢になってからの障害を治すことは とても難しいです。
それらの原因の一つが「行動力の低下」であると思います。
痛みなどで動かなくなってくると動きたくなくなり、閉じこもりがちになってしまいます。
カラダを痛めない正しい使い方で行動力の低下を防ぎ、平均寿命と健康寿命の差をなくしたいと思います。

※健康寿命:支援や介護を必要とせず自立した生活を送れる期間

動けるカラダで仕事やスポーツのケガを

ボクは2017年に潰瘍性大腸炎が再燃して47kgまで体重が減り、著しく筋力が落ちてしまいました。
そのため大好きな自転車も満足に乗れず、楽しめなくなってしまいました。
しかし正しくカラダを動けるように機能を改善することで、筋力に頼らず動けることを実感しました。

チカラが抜けて正しくカラダが動くと、無駄がなくなるので動作の質が変わります
それは仕事やスポーツのパフォーマンスアップと、ケガのリスクの低下につながります。

能改善による自然なカラダの使い方

治療院や整体へ予防のため定期的な通院をしている人もいると思います。
でもそれはマッサージやストレッチで筋肉をほぐしているだけではないでしょうか?
それでは予防として不十分だとボクは思います。

なぜなら、予防は正しい動作をすることが第一歩であると思うからです。
ダイエットするために、間食をやめなければならないことと同じです。

私たちは正しい動作ができない場合は、動かすべきでない部位で代償動作をします。
それが続けば痛めるのは当然ですよね。

正しく負担のない動作ができるように、動作パターンを改善しなければなりません。
そのためには、できる動作からステップアップして機能を改善していきます。

タバコを辞めても完全に肺がんを防ぐことはできませんが、機能が改善することで大きくリスクを減らすことができます。
負担のない自然なカラダの使い方はケガの予防はもちろん、スポーツや仕事のパフォーマンスアップにもつながるはずです。
「筋力をモリモリつけたカラダではなく、あくまでも自然に動くカラダ」これが私の健康なカラダの考えです。

自身もスキーや自転車を生涯続けたいのでメンテナンスは欠かせません!撮影:Y.Nakamura